まいてぃのにっき!

絶起、落単、留年

将来の夢

17歳の時、1番嫌いな年齢は「18歳」だった。

18歳にはなりたくないなあと頑なに思っていた。だって、18歳はもう大人なのだ。17歳は少年で通用したけど、18歳は男だと思った。子供として生きる最後の年。18歳になって、大人の仲間入りをしたらもう子供のように純粋に大人を憎めない。自分の純潔さが失われるような気がした。18歳ってすげえダサいと思ってた。

だから18歳の誕生日はちっとも嬉しくなかった。あー、なんだ俺ももう大人かよ、って思った。つまんね〜な〜って。

 

17歳の頃、俺は自分の高校のクラス担任が嫌いだった。

俺にはその先生の小悪党ぶりが許せなかった。タバコのヤニ臭くて、服装がめちゃくちゃダサくて、フケだらけで、常識だけを優先して、薄っぺらで、尊敬できるところが全くないって思っていた。

ある時、クラスの赤い羽根だかなんだかの募金したお金の入った箱が盗まれた。学校側もマヌケである。開校以来のミステリーと騒がれた。

すると担任がホームルームで言ったのだ。

「みんな目をつぶりなさい。そして、盗んだものは手を挙げなさい。」

俺はあきれた。そんなこと言ったって手をあげるバカがいるか、と思っていた。もちろん誰も手をあげない。すると担任はこう諭したのだ。

「実は先生たちは、誰が盗みに来るのかを物陰に隠れて見ていたのだ。だから犯人を知っているのだ。いいか、自分から名乗り出たら穏便に済ませてやろう。だが、もし自ら名乗らなければ反省の色なしとして厳重に処罰しなければならない。だから、どうか自分から名乗り出てほしい。」

俺はこれを聞いて脱力した。アホか。嘘つくのもいい加減にせえよ。それにもし本当に隠れて見ていたなら、盗もうとした時に止めるのが教師だろうが。あーもうほとほと大人というのは汚いと思った。こいつら腐ってる。こんな嘘を、まるで正義と錯覚して生徒に話す大人はどうかしている。なんてえげつないんだと思った。

17歳の俺はこの担任の嘘にかなり傷つき絶望していた。17歳っていうのはそういう年齢だった。担任は俺ではない。別の人格だ。でも、担任がズル賢いことをすると、それをまるで自分のことかのように恥に感じて、怒り、吐き、絶望してしまう。

他者のずるさや醜さにいつも翻弄されて、腹を立てて、自分が苦しくてたまらない。醜い大人、えげつない大人、愚かな大人、小ずるい大人を見ると、自分の心が苛まれて荒れ狂ってしまう。人は人、自分は自分なのに、17歳の頃はどういうわけか大人の言動が許せなかった。大人たちの態度に傷つき、怒り、反発した。全て他人事なのに。

 

17歳の頃、よく息を止めて死ねるかどうか実験していた。

なんというバカなことをしていたのだろう。でも、やっていた。布団の中に潜って息を止めて、そのまま死ぬまで息を止めていようと思うのだけれど、死ななかった。死ぬことにちょっとだけ憧れていた。俺が死んだら誰が悲しんで泣いてくれるかよく空想していた。

 

ものすごく人間の体の中を見てみたかった。

死体を見たいと思っていた。なぜなのかわからない。俺は思春期の頃はずっと、人間の体の中がどうなっているのか気になっていた。手術を見てみたかった。内臓はどんな風に詰まっているのか知りたかった。なんで内臓を詰めたまま自分が動き回っているのか不思議だった。

 

どうして俺は俺なんだろう。なんで俺は生きているんだろう。考えるとクラクラするけど、どうしても知りたいと思った。俺の生きている意味を知りたかった。誰かに「お前はこれこれこういう理由で生きているのだ」と説明して欲しかった。この世の真理を知りたい。なぜ俺が生まれたのか教えてほしい。そしたら頑張れると思った。俺の人生の意味は混沌としていた。自分が何者なのかさっぱりわからなかった。

 

何故かタバコは吸わなかったが、酒は飲んだ。なんとなくいつも寂しかった。よく1人だった。あの頃、楽しかったけど俺は17歳の頃にはもう戻りたくない。自意識が強すぎて生きるのが苦しかった。ちょっとしたことにグサグサ傷ついて、落ち込んで、恥ずかしがって、悩んで、本当にめんどくさい。あんな時代はもうごめんだと思う。

 

まだそれから2年しか経っていないけれど、今では、「人は人だから」と思える。状況の中でどう行動するかは個人の自由だ、と冷静に傍観できる。他人が自分に侵入してきて苦しむことはなくなった。だけど、17歳の頃の俺は、そうじゃなかった。「結局、大人は自分さえよければ他人はどうなってもいいんだ」って思うと、それだけで苦しくて絶望してた。

自分とか親とか、自分と社会との境界線が曖昧で、周りの人間が理不尽なことをすると、その理不尽さに自分が押しつぶされていた。そして、苦しんでた。それなのに、

「バカみたい。なんであんたは他人の事でそんなに怒るのよ」

って母親に言われて、殺してやりたいほど憎んだことがある。(まあ今でも憎んでいることに変わりはないのだけれど)。

虚しくて、悔しくて、どうにでもなれ、と思って、

「ああ、俺はただ生かされているだけだ」

そう思うことで自分の心をしずめてた。

 

だけど、俺は幸運なことに、かっこいい大人にもたくさん出会った。

きちんと自分に落とし前をつけて生きているような大人の男や女とも、思春期の頃に出会った。その人たちが、この社会のものすごい理不尽や、とてつもない不合理と体を張って闘っているのを見せてもらった。すげえって思った。マジだぜこいつら、ってビビった。

その頃から、つまんないことで自分が絶望しちゃいけない、って思ったような気がする。

俺がくだらない大人に絶望して拗ねてても、世の中をナメても、結局はそれは何の意味もない。優しい奴ほど図太くならなくちゃいけないんだな、ってそう思った。

 

子供の頃は親の背中を見て育ってきたけど、思春期以降は赤の他人の背中を見て生きてきた。それは現実で出会った人だけでなく、テレビや伝記で読んだ偉人だったり、はたまた小説や映画の登場人物だったりした。他人の背中に育てられて、ここまできたのだ。

 

それだけたくさんの大人に出会って色々感じたというのに、今の俺としては、将来の夢、といったものがまるでない。小学生の頃からそうだった。学校の宿題で「将来の夢」についての作文が毎年のように課されていたが、いつも期限ギリギリまで引き伸ばしてはテキトーな事を書いていた。サッカー選手、とか。もちろんなれるわけもなければ、なりたくもなかった。なりたいものが、なかった。

 

俺は時々夜中に1人で自己分析を始めたりする気持ち悪い人間だが、やっぱり、根っからのクズなんだろうなと思った。働きたくない。でも欲しいものは欲しい。それは物だったり人だったり地位だったりお金だったりするけれど、自分の時間や労力を削るまでのエネルギーがなかった。端的に言うと無気力。それは今でも変わらない。

 

だから、結論、将来の夢は今のところない。俺の心を揺さぶる情熱が現れるまで、今のようにダラダラと生きていこうと思う。

まだ少し書き足りないくらいだが、文が乱れてきたので今回はこの辺で終わろうと思う。長々とありがとうございました。ではまた。