まいてぃのにっき!

絶起、落単、留年

散歩

夏目漱石の「こころ」が話題に上った時、友人が、「ああ、あの散歩ばかりしている小説ね」と見事に一言で言い切った。

たしかに登場人物たちはしょっちゅう街を歩いている。歩きながら、考えたり喋ったりしている。先生が苦悩の一端を語り手の"私"に垣間見させるのも散歩の途中であったし、1人の女性を巡って先生と親友Kの関係が抜き差しならない状態に陥っていくのもまた、長い散歩の途中だった。「こころ」の中で、大事なことは全部、散歩を通して浮かび上がってくる。

もし、散歩文学というジャンルがあるなら、「こころ」はその筆頭に挙げられるべきだろう。ほかに、梶井基次郎の「檸檬」、ヘッセの「車輪の下」、ツルゲーネフの「はつ恋」なども入れたい。武田泰淳にはずばり、名著「目まいのする散歩」がある。「ノルウェイの森」で主人公と直子さんが体を寄せ合って散歩する、ただそれだけのデートを繰り返す場面も忘れがたい。

こんなふうに並べてみると、散歩文学にはあまり威勢のいい作品は似合わないようだ。檸檬を本屋さんに置いてきたり、大人たちの期待に押し潰されて少年が病気になったり、初恋の人をお父さんに奪われたり、どれもこれも心沈むお話ばかりである。

散歩の時、体はもちろん一歩一歩前進しているのだが、気持ちも一緒についていっているか、というと疑問が残る。むしろ気持ちの方は一点にとどまり、体が通り過ぎた跡をじっと見つめているような気がする。体と気持ちがちょうどいいスピードで切り離され、心の底のもやもやとした薄暗がりにも視線が届く。

例えば行進には、未来に辿り着くべき目的地をしっかりと見据えた勇ましさがある。背筋が伸びている。あるいはピクニックには、もっと心浮き立つ雰囲気がある。空は晴れているし、バスケットの中には美味しいランチが入っている。

ところが散歩は違う。背中は丸まっているし、雨でも大丈夫。散歩に漂う静けさには、やはり文学が似合う。行進文学、ピクニック文学の棚に並べるべき本を探すのは、少し難しいかもしれない(そんなこともないけど)。

さておれも五年以上、主に夜に、散歩を続けてきた。しかしこれは全く文学的とは言いがたく、ただブラブラ歩いているだけなのだ。決まった時間に静かな公園でも歩けば、素晴らしいアイデアが浮かぶのでは、と勝手な妄想を抱いたこともあるのは事実だが、現実にはなにも生み出せやしなかった。ただ、時折すれ違う野良猫や野良犬と会釈を交わすだけである。

電信柱の根元に、側溝の蓋に、ゴミ袋の山に、犬はぐいぐいと鼻を押し付けている。眉間にしわを寄せ、よだれを垂らし、宙の一点を見つめている。その表情は、「檸檬」の青年や「車輪の下」のハンスと同じく、生きることの複雑さを嘆いているように見えなくもない。その嘆きについて語り合えたらなあと願うものの、犬はフンと鼻を鳴らすばかりだ。

そこへ三つくらいの男の子とお父さんが通りかかった。

「パパ、まてまてごっこやろう」

まだ上手に回らない、しかしTwitterのオタクよりはハッキリとしたお口で男の子がせがむ。まてまてごっこ、とは何か。

「よし。さあ、まてまて」

そう言ってお父さんは、男の子の後ろを追いかけ始めた。ただそれだけのことなのである。

お父さんはなかなか追いつかない速さで、しかし両腕をのばして今にも捕まえようとする素振りを見せ、男の子は後ろを振り返って一生懸命走りながら、どこかでお父さんに捕まえてもらいたいという気持ちを隠せないでいる。一切余計な道具を使わずにすぐできる、何と簡潔で見事な遊びだろうか。おれはしみじみ見入ってしまった。男の子は世界中に何一つ嘆きなどないという顔をしている。完璧な安心がそこにはある。卑屈なオタクであるおれは少し羨ましく思ってしまった。

ああ、おれも昔はこんな顔をしていたかなあ、と思う。でも当時は、それがどれほどあっという間に過ぎ去ってしまう瞬間か、気づいていなかっただろう。特別に与えられた一瞬だ、などとありがたく思う暇もなかっただろう。自分はあの男の子のように、心の底からその一瞬を味わっただろうか。日々のつまらない用事に手を取られ、貴重な時間を見過ごしてきたんじゃなかろうか。

 

思えばおれは冷めた子供だった。

自分の歪んだ一面を自覚している、両親も含めた周りの大人を腹の底から見下していて、世の中の事象にこれといった感動も覚えない、小さい頃からつまらない人間だった。

初めのうちは、極めて普通の、純粋な目をした子どもだったと思う。親を信頼できなくなった時から、変わった。

他人という空疎な存在を妄信し甘えていた自分を「愚かだった」と切り捨てることで、苦痛は教訓へと切り替わった。残ったのは歪んだ優越感や、プライド、など。

 

親子の笑い声を聞きながらおれは、何もかもが手遅れで取り返しがつかないような気分に陥る。自分の愚かさを嘆く。

取り返しがつかないのに、どうして日々無事に過ぎていくのだろう。嘆いた後に今度は、ふと不思議な気持ちになる。こんなふうにおれは、まるで嘆きを求めるかのように、また明日の夜、散歩に出かけるのだ。

 

 

自粛期間だけど。