まいてぃのにっき!

絶起、落単、留年

好きな作家について

なんか真面目な題名をつけてしまったけれど、大した事を書く頭も文章力もないので駄文が続くんだよな〜〜これが。許してチョンマゲ🤗

前に書くお題を募集したんだけど、案の定誰からも要望がなかったので好き勝手書く。とりあえず。いや、泣いてねーから。どーせ来ないと思ってたし。泣いてねーから。ハンカチとかいらねーから。オイ。

という事で題名にもある通り、今回は好きな作家について書こうと思うぜー!!!好きな本ではなく好きな作家。好きな本と好きな作家が別なのか?と言われるかもしれないが別。完全に別。ほら、よくあるじゃん、素人がたまたまめっちゃすごい俳句作ったみたいな。ああいう感じ。だからと言って好きな本の作者が素人とかそういう訳でもないんだけど、とにかく別なんで許してください何にもしないけど。あんまり突っ込まないでください。そういうの、イジメですよ?イジメ、ダメ、絶対。

まぁ先に名前出しちゃうと、小川洋子さんなんですよね。名前聞いたことないかな?「博士の愛した数式」とかが有名だけど。

Twitterをするようになって、喜ばしい事も多々ある代わりに、こんなはずじゃなかったと思う事もいくつかあるのだけれど、中でもせつないのは、小説を純粋に楽しめなくなったこと。国内・外を問わず、誰のどんな作品を読んでいても、そしてそれがどんなに面白い小説だったとしても、頭の片隅には常にもう1人の醒めた自分がいて、冷静に批評を下している。

本来、読書は僕にとって最高の娯楽のはずだった。読むことが好きで、読み終わった後カタルシスをもたらしてくれる小説に出会うと幸せで、その喜びを他の人にも味わわせたかった。自室は本で埋め尽くされていたし、部屋に収まりきらなくなっても買っていた。それくらいに本が好きだった。しかし今はさほど読書の楽しみに没頭できない。あんまりじゃないかと思うがどうしようもない。Twitterが楽しすぎるのが悪い。

そんな僕にとって、小川洋子さんという作家の存在は、一筋の救いだ。彼女の小説を読んでいる間だけ、僕は全くの読者に戻れる。純粋な読書の楽しみにどっぷり浸かることができる。最後の一文にたどり着くまで気持ちよく「我を忘れる」ことができる。

小川洋子さんの小説を読むたびに、僕はいつも、職人だなあと思う。言葉を1つ1つ磨き、靴とか家具とかオルゴールとか、ともかく形ある何かをつくるみたいな手さばきで、小川さんは小説を書く(のだと思う)。これはほんとうに不思議なことだ。本という形を与えられる前の小説は、そもそも形を持たないもののはずだからで、それなのに小川さんの小説は、一編ずつ、確かに手触りがあり、固有の質量を備えている。たとえば石1つ分、たとえば椅子1脚分、たとえば湖1つ分、たとえば教会1棟分、たとえば豆電球1つ分の質量を。読み終わっても、だから消えない。石やや椅子や湖が消えないように、小川さんの小説も、読んだ人の中にあり続ける。余韻、ということなのかもしれない。けれど余韻という言葉では収まりきれない、むしろ異物感のようなもの、ざらざらしているとか、つるつるしているとか、光っているとか、やや困惑させられる類のものも、はっきりと残る。

見事だと思うのは、生き物ではない動物(置物の犬とか)が小説のなかで確かに息づいていることで、これにはただもう呆然とした。

と、ここまで書いたところで急にTwitterがしたくなったので終わります。頭の中の構想ではまだあと半分くらい書くつもりだったんですが、Twitterが僕を呼んでいるのでダメです。こればかりは仕方ないですね。幸せの青い鳥について行っちゃいけないよ(うろ覚え)

ではまた。

追記:「僕」って一人称、普段使わないからめっちゃ違和感あるキモすぎワロタ